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福祉のみかた 第1回

隣に住む人の名前さえ知らないのに、地域での共生なんて可能なのでしょうか?

戦後の経済復興のなか、急速な都市化が進み、
住環境や家族のあり方なども、大きく変化しました。
戦前のような古いコミュニティはとうに失われ、
近年は、メディアの発展が人と人とのつながりをさらに
薄いものにしてきているように思われます。

これからの福祉を考えるときに、
地域共生が不可欠とされていますが、
隣に住んでいる人の名前さえ知らないような今の日本で、
どうやったら共に生きる社会を実現できるのでしょうか?

「だれも一人では生きていけないと思います」答える人 神野直彦学長

結びつきが失われれば、みんな苦しいはずでは

たしかに、現代の日本では、人と人との結びつきが弱くなっていますね。孤独死やゴミ屋敷などの話題も、今では当り前のようになってしまっている気がします。近隣への関心が失われれば、隣に住む人の名前もわからないかもしれません。

それなら、人間は一人で生きていけるのかといえば、私はそうではないと思います。たとえば、人が赤ちゃんとして生まれ、人間として育っていく過程は、さまざまな人と触れ合っていく過程でもあります。人が人間であるためには、他者との触れ合いが欠かせないのです。

つまり、人は自然な状態に置かれていれば、自ずと他者と結びつこうとするはずなのですが、今の時代では、その結びつきが失われつつあるために、誰もが苦しんでいる。自然の姿に戻ろうとするさまざまなもがきが、どうもうまくいかなくて、かえって社会を混乱させてしまっているのではないかと、私は考えています。

暮らす場所と働く場所とが離れてしまうのです

では、なぜ私たちは、人との結びつきを失ってしまったのでしょうか。ポイントは、まず人と地域との関係が大きく変わってきたことにあります。


働き手にとっては、生活の場にいる時間が少なくなりますし、生活の場のあり方への関心も低くなってしまうでしょう。これでは、生活の場でみんなが手を携えて生きていくことは難しく、人と人との結びつきは弱まっていくばかりです。

日本の産業の中心が農業だった時代、人々の多くは、決まった土地のなかで農作業をし、またそこで生活もしてきました。明治以降に工業や商業が発展してからも、まだ人々が働く場と暮らす場はそれほど離れていませんでした。そのように、生活の場と生産の場が一致していれば、地域と強く結びついたコミュニティも自然に形成されていたはずですね。

しかし戦後、経済が発展するなか、産業の構造だけでなく、交通や流通のあり方も、大きく変わります。人々は、家族と暮らしている生活の場から抜け出し、遠くまで仕事に出かけるようになります。そのような働き方のスタイルが一般化したため、生活の場と生産の場は分断されることになってしまったのです。

民主主義を信じられなくなってしまったのかも

他者との結びつきがどんどん弱くなり、人々のなかで『共に生きる』という感覚が失われてくると、社会に大きな歪みが生まれてきます。まず、人間を信頼することができなくなってきます。そうすると、どうなるか。政治的に見れば、それは民主主義への絶望というかたちで現われるのです。

戦前の日本では不十分だった民主制度が、戦後ようやく確立されます。普通選挙が保障され、成人であれば誰にでも選挙権が与えられるようになりました。しかし、当初は高かった投票率は、しだいに低下してしまいます。理由はいろいろ考えられますが、人々が民主主義による政治制度に希望を失ってしまっている状況を、そこに見ることができるのではないでしょうか。

OECDの統計によると、主要国の中で、このところの日本の投票率は最下位。いかに日本人が民主主義を信頼していないかがわかるような気がしますね。

東日本大震災で見せた互いに助け合う姿は今

すると、民主主義による地域共生は、日本ではもう期待はできないのでしょうか?

私は、そうは思いません。あの東日本大震災で多くの人が見せた互いに助け合う姿は、日本の人々が『共に生きる』ことへの指向を捨ててはいないことの、確かな証しではないかと感じるからです。

これまでも、日本は何度も大きな災害に見舞われてきました。そして、生と死を分かつような過酷な現実を目にした人々が、『共にしなければ生きていけない』と実感することで、何度もその危機を乗り越えてきたはずだと思うのです。

都市部では、コミュニティがほとんど機能していないともいえますが、広く見渡してみれば、なんとか『共に生きる』コミュニティを再生しようとする建設的な活動も、各地で行われているのです。たとえば、住民が共同で運営にあたるような、イベントや祭の活動や消防団活動などへの参加者が増えている地域も、多く見ることができます。草の根レベルでは、実はコミュニティの活性化に奔走する人々が存在しているのです。

【地域力強化をとりまく様々な資源】
さまざま公的な資源が日本の地域共生を支えていますが、これからは、ボランティアやNPOなど一般の人たちの草の根的な関わりがいっそう大切になってきます。 地域力強化に関する検討の経緯
[出典:厚生労働省:第1回地域における住民主体の課題解決力強化・相談支援体制の在り方に関する検討会(地域力強化検討会)の資料2「地域力強化に関する検討の経緯」(厚生労働省 http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12201000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu-Kikakuka/0000138878.pdf p.14)を加工して作成]

家族に責任を負わせても、問題は解決しません

ただし、そうした小さな地域活動を、社会全体にまで広げていくためには、やはりサポートが必要です。そのサポートとなり得るものこそ、社会保障制度の充実ではないかと、私は考えます。つまり、家族やそのまわりの地域だけで担っていたことを、社会全体で担っていこうとするやり方です。

神野直彦学長
けれど、残念ながら日本にはまだ、この感覚が根付いていません。誰かが何かの問題を抱えたとき、その個人や家族が責任を負うべきだとする見方が、今も強く残っているからです。すでに、家族というあり方自体が大きく揺らぎ、誰かをサポートする単位として期待できなくなっているにも関わらず、家族に責任を負わせようとしても、問題が解決しないことは明らかでしょう。

日本では、孤独死がめずらしいものではなくなりつつあると、あるフランス人に話したら、唖然とされたことがあります。孤独死は、家族に過度な負担を強いる日本だからこそ、とくに顕著な現象なのです。

『オムソーリ』という言葉を聞いたことがありますか

そんなときに、見習うべき先例として、フィンランドやスウェーデンなどの国々があります。

たとえば、児童虐待があった場合、日本ではその児童の保護や隔離は行いますが、虐待した親への働きかけは、ほとんどありませんよね。ところがフィンランドでは、虐待が判明したら、「家族が機能障害を起こしている」として、その家族みんながファミリー・リハビリセンターに入所することになります。また、スウェーデンでは、資格を持ったコンタクト・ファミリーが、問題のある家族と生活を共にすることで、家族全体の立ち直りをサポートする制度があるのです。

こういった取り組みのもととなる考え方として、スウェーデンに『オムソーリ(omsorg)』という言葉があります。『悲しみの分かち合い』という意味です。悲しみを分かち合えば、悲しんでいる人は負担が軽くなり、悲しみを引き受ける側も他者に必要とされる喜びを得ることができ、みんなが幸せになれるという考え方ですね。

今では、社会保障よりもっと広い、社会サービス的なシステムを指す言葉として用いられています。このようなシステムが浸透しているからこそ、スウェーデンでは地域社会のまとまりが強くなり、近代化によっていったんは失われかけたコミュニティも復活しています。
隣に住む人の名前さえ知らない日本の人々が目指すべき方向が、そこにあるのではないでしょうか。私は希望を持っています。


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